茶藝師 中田有紀のこと

お茶

 私が、茶藝師の「中田 有紀」と出遭ったのは、2001年のこと。師匠の「葉榮枝」先生が来日し岩茶の講演会を開催されときに、私が中国茶に関連する仕事をする際にはご協力をいただけるとのお言葉を頂戴してその御礼のご挨拶に香港を訪れたとき、『楽茶軒』の上環の店で茶を淹れてくれたのが最初である。私は香港公園の茶藝館で先生と再会することができのだが、お土産は上環のもうひとつの店で買おうと決めて訪問した。上環の店は中国茶葉販売の専門店と聞いていた。先生のお店はすべて見ておきたいと思ったのである。あれこれと10数種類も試飲しただろうか、それを手際よくこなす様子を見て、手慣れたものだなと感心したものだった。日本の茶藝館では試飲させてくれても2~3種類、それ以上は難しい。『遊茶』でオーナーの藤井さんに頼むとか、『CHINA CHA CLUB』(港区三田にあった茶藝館)で生田さんに淹れてもらう場合とかは別として、無理を言っても困った顔をされるばかりで、「ご迷惑なら、帰ります。」なんてことになるのとは大違いだった。ほとんど無制限といってもいいくらいに、次から次へと試させてくれて、一時間ほどの間に、よくもこれだけ淹れ続け、飲み続けたものだと思うが、私がよほど「カモ」顔していたのか、それとも葉先生から言われていたのか、或いは、暇だったのか、真相は分からないが、太っ腹というか、「本場は違うな~」、と驚いたのを思い出す。

 次に彼女に会ったのは、葉先生の通訳、兼アシスタントとして、先生に同行して帰国したとき。先生は、渋谷区道玄坂にあった中国茶館『華泰茶荘』の中国茶講座の検定試験の試験官として来日され、空き時間に、日本茶の生産地を観に行かれたり、日本の中国茶専門店を訪問されたり、中田女史は通訳、兼アシスタントとして先生に随行したと聞いている。その時も、先生は世田谷の『茶壺天童』で講演会を持たれた。もちろん私も参加した。太極拳の動きと中国茶藝の所作の共通点を挙げながら、工夫茶の御点前の実演をなさった。予めそういう予定だったのか、それとも、その日の流れでそうなったのか、分からないが、即興演奏を聴いているような変幻自在な展開に圧倒されたのを覚えている。このような講演を、後にも先にも、私は経験したことはない。葉先生は、御一人で来られた前回と違って随分とリラックスされ、講演会の雰囲気もより親密なものが感じられ、先生との距離がぐっと近くなったような嬉しさを感じた。

 私は、香港へ行けば必ず先生の店を訪ねたが、お忙しい先生にお目にかかることができたのは稀なことだった。先生は、茶農家を積極的に訪問されるのに加え、大学の行事やさまざまなイヴェントへの出演依頼も多く、突然伺ってもお会いできる可能性は低いので、予め中田女史に先生の予定を聞いて日程を合わせて出かけるのだが、香港にいらっしゃったとしても、面談の時間をいただけたのは2回だけだった。そうしてみれば、最初の香港訪問で、先生にお目にかかれたのは、本当にラッキーだった。

 香港に行けば上環の店にも行って、試飲したいお茶を中田さんに淹れてもらって、買えるだけのお茶や茶器を買って、香港滞在中に中田さんを誘って、広東料理レストランに行くのが習わしとなった。広東料理レストランに行ってその店の料理やサーヴィスを堪能しようというのなら、私ひとりで行くよりも何人かで行った方が絶対に楽しめるし、中田さんから中国茶のことや香港のレストランの情報を聞くことが出来るのは、とても有用だった。中田さんは香港の中国茶専門店のことはほとんど知っていたし、地元の人たちに人気のあるレストランのことも、いろいろと教えてくれた。中国茶に関しても、広東料理に関しても、中田さんの評価は的を射たものであった。中田さんに、行きつけの下町のレストランに案内してもらったこともあった。

 中田有紀は奈良県大和郡山市出身。ジュディ・オングが中国茶を紹介するのを観て興味を抱き勉強できる場所を探したが、中国茶の講座は見つけることができず、煎茶道を学ぶこととなった。煎茶道のなかに、台湾茶を淹れるお点前も含まれていたからである。社会人となって、はじめは美容師として活躍していたが、化学薬品を多用するその仕事に体質が合わないことから断念せざるを得ず、次の展開を模索しているときに、たまたま香港に旅行する機会があった。そこで中国茶藝の奥深さに感銘を受け、大陸茶藝を学びたいと思った中田さんは、大胆にも『楽茶軒』で働くことにした。『楽茶軒』で働けば、お金をかけずに中国茶の勉強ができると考えたからだった。広東語もままならない状況であるにもかかわらず、どうしてもここで中国茶の勉強をしたいと直々に先生に願い出た。先生は中田さんの熱意と意欲をかって『楽茶軒』への入社を許し、以後10年間にわたって、先生のもとで教えを請うこととなったのである。

 《茗圃》がオープンしてしばらくして、中田さんが日本に帰りたがっているという話を支配人の金から聴いた。「お母様も年をとられいつまでも畑仕事を続けていくわけにもいかないし、葉先生のもとで学ぶべきことも一区切りがついた」と思うので、「次のステップとして、自分自身の新たなキャリアを、母国である日本で踏み出してみたい」というのだ。

 とは言っても、日本に於いて茶藝師として身を立てていくのは、容易なことではない。中国茶ブームに乗じて、少なからぬ数の中国茶専門店が開店したが、ブームは一時的なもの、その後はほとんどの店が苦戦を強いられている。それならば、茶藝師を必要とする《茗圃》(茶を淹れる役割は、開店以来、先生のご承諾を得て、私が務めてきた)でその役割を演じつつ、今後の展望を見定めていくのはどうかということになり、先生に御了解をいただいたうえで、移籍することとした。

 『楽茶軒』上環店の看板娘だった中田女史の退職が大きな痛手となることは明らかだったが、葉先生は「そうか!」と、それを認めてくださった。こうして《茗圃》は、名実ともに、茶藝師と點心師とを擁する「飲茶の殿堂」をめざす体制を整えることが出来た。

 《茗圃》は葉先生に命名いただいた世界で唯一の「飲茶」レストランである。そこで先生の直弟子である「中田有紀」が茶をたてる。「縁」とは不思議なものである。20年前に偶然「茶壺天童」の井上さんから参加しないかと声をかけていただいた講演会をきっかけに結ぶことが出来た先生との「縁」が、このように、願ってもないカタチで花開いたのだった。

 中田は《茗圃》での活動をベースに(テーマ別茶会と茶藝講座を随時開催)しているが、その他に、2012年に茶藝家として、地元奈良県大和郡山市の実家に『楽有家』をオープンさせた。また、私がNHKから依頼された茶藝講座では、アシスタントを務めてくれたし、その後、単独で「東邦ガス」主催のラジオ番組に出演したり、著名な料理研究家とのコレボレーションで「中国茶と家庭料理」の教室で講師も務めてもいる。2015年には古川為三郎記念館の中庭で茶会も催し、近年では、名城大学で講演も行った。

 

 

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