福臨門のこと

お店の事

 本場香港でも随一の名店と呼ぶべき『福臨門』が日本にやって来たのは1989年のこと。バブル経済も終焉を迎えようかという時期だった。私は、この広東料理の雄ともいうべき名店と、日本進出から10年の間、ともに仕事をする縁を得た。衝撃的な体験だった。今の私があるのもこの経験のおかげだと、今更ながら感謝している。書き切れないほどさまざまなことを学ばせてもらった。素晴らしく、輝かしい時代だった。

 香港は、1997年に本土に返還されることが決まっていて、99年ぶりのこの目出度い出来事に大きな関心が集まっていた。しかし、香港の人々は、期待以上に不安を抱えていた。その日が近づくにつれて、香港経済に大きな影響力を持つ人々がシンガポールやカナダに移住を検討し始めていた。『福臨門』の社長「徐 維均」も、香港経済の先行きに不安を感じ、何としても海外に拠点を築いておきたい、と願っていた。それならば、まずは東京、それも銀座がいちばんだと狙いを定めていた。しかしながら、徐氏にとっては初めての海外進出であり、香港では名声を欲しいままにしていた『福臨門》といえども、バブル期の東京で、それも銀座の一等地で、日本でのビジネス経験のない海外の企業に、保証人なしに入居を許すビルのオーナーはいなかった。無担保で数億円の資金援助をする銀行もなかった。その情報を得た株式会社アペックスのオーナー「森 一」は『福臨門』のビジネスパートナーを引き受けることにした。すでに1983年にフレンチ・レストラン『アピシウス』をオープンし、日本のグルメ産業界に名乗りを上げていた同社にとって、中華とフレンチというようにジャンルは異なっているとはいえ、『福臨門』の看板が、この業界でのステイタスを確立するために有用だと考えたからだった。

 飲食事業の市場は、グルメ・ブーム到来の兆しを感じさせるに十分な成熟を示していた。しかし『アピシウス』を開店した当初1980年代の前半、何の実績もないフレンチ・レストランの突然の登場に、日本の美食家達は慎重だった。海外の人々と違って、当時の(或いは現在も)日本のグルメ達は、実績重視というか、評判の確立しているところを志向する傾向が強く、新たなスターを自ら見出していくことは苦手で、ルーキーにはやたら厳しく、オピニオン・リーダーたる批評家達も、むしろ、評価の確定している老舗と比較して新参の知名度の低い店の弱点を指摘することが、自らのアイデンティティーを示すことだとするような権威主義が蔓延っていて、相当に苦戦を強いられていた。当初から本格的なフレンチを標榜し、ローマ時代の独創的、かつ革新的なグルマンの名を冠した『アピシウス』では、食材、調理技術はもとより、厨房設備、内装、調度品にいたるまですべてを厳選し、本物に拘り、高邁な精神と哲学とをもって創業したのであったが、その真価が認められるには、実績のある料理人とのコラボレーションといったようなきっかけが必要だったことも事実だった。

 開店して数年後の1986年、当時のフランス料理界で、いずれも最高の料理人と認められていた「ジョエル・ロビュション」、「アラン・シャペル」、「ジャック・ポリー」の3氏を招聘し、しかも前菜からデザートまで、すべてトリュフを用いたコースを提供するという、この当時ならではの贅を極めた企画のイヴェントが考案され、『アピシウス』を舞台に挙行され、日本のグルマン達の度肝を抜いた。これが大きな転機となって、『アピシウス』の名は日本のグルメ業界の表舞台に一躍躍り出ることとなった。この頃(日本に於けるグルメ・ブーム初期段階)は、日本のグルメを自認する食通といえども、フランス料理に対する自らの評価・判定には自信が持てず、本場で実績のある著名人や権威あるガイドブックの裏付けを拠り所とせざるを得なかった、ということなのだろう。これを契機に、有名なホテルやレストランで、三ツ星レストランのシェフを招いてのイヴェントが競って展開されることとなった。しかしながら、一流のホテルやレストランであっても、スペース的にも、機能的にも『アピシウス』のように恵まれた厨房設備を有する店は少なく、本場のオーソリティを迎えたイヴェントでさえ、その実力を遺憾なく発揮できたと絶賛されるような成果を挙げた催事は限られていたと記憶する。

 そのような時代背景にあって、株式会社アペックスの「森 一」は『福臨門』とのパートナーシップは、同社にとって、ハイエンドの顧客層をターゲットとする『アピシウス』と『福臨門』が並び立つことによるシナジー効果が期待できる、という思惑とともに、未だ本物の広東料理の真価を知らない日本の中華料理界に革新と覚醒をもたらさん、という信念と気概をもって、『日本福臨門』を設立したのだった。

 『アピシウス』のときとは違い、日本のグルマン達はすぐさま『福臨門』を歓迎した。『福臨門』ブランドの権威と実力は伊達ではなかった。開店当初から満席の盛況をみせ、高額なメニューがオーダーされた。著名なタレントや政治家、映画監督や作家、名医と称される人達が我先にと押し寄せてきた。グルメ・ブームを背景に人気を博した《おいしんぼ》という漫画に採り上げられる「至高のメニュー」や「究極のメニュー」には、頻繁に『福臨門』と『アピシウス』のメニューが登場した。そして、当時の料理長であった「呉 錦洪」や「高橋 徳男」の名は、それぞれの業界で不動のものとなった。

 邱 永漢が著した香港ガイド・ブックのなかで「福臨門へ行くと財布が火事になる」と紹介していることは有名だが、『福臨門』というレストランには「旨いものにはいくらでも出す」という客筋が確実についていた。「美食の街、香港」の常連客は、毎晩のように『福臨門』の決まった部屋に、決まった時間に集まり、決まったメンバーで麻雀をし、『福臨門』でいつもの御馳走を食べて、その後は夜の街に繰り出すというのが習わしだった。

 日本にグルメ・ブームが沸き起こったのは1980年代のこと。この時代に、重要な価値観の転換があった。70年代前半迄の日本は、アメリカを手本に、経済発展を基軸として、戦後の復興を目指していた。アメリカ合衆国は70年代前半までは隆盛を極め、この国こそが目指すべき国家であり、我が国の国民にとって、アメ車に乗って、アメリカン・トラッドの衣装を着こなし、ビーフ・ステーキをお腹いっぱい食べるということが、贅沢の象徴だった。誰もがリンカーン・コンチネンタルに乗りたがり、アイヴィー・ブランドやニューヨーク・ステーキに憧れたものだった。この時代の流行語に「大きいことは、いいことだ」というのがあったが、右肩上がりの成長路線を突っ走っていた日本では、「豊かさ」は「量」や「大きさ」によって保障された。ところが、70年代後半にアメリカがベトナム戦争に敗れ、アメリカ至上主義的な考え方が崩れ去ると、価値基準が「量」から「質」に置き代わることとなった。経済成長によってもたらされた所得の安定と、為替の変動相場制への移行による新たな機会創出の結果、まずは米国志向から欧州志向に、さらには、価値観の転換と多様化に大きくシフトしていった。もはや、大きいだけではだめ(むしろ、大きすぎることはよくないこと)で、「大は小を兼ねる」という表現はさっぱり使われなくなった。ファッション業界では、アイヴィー・ルックがフレンチ、ないしはイタリアン・ファッションに、グルメ業界ではステーキ・ハウスがフレンチ・レストランやイタリアン・レストランに取って代わられることとなった。従来はアメ車を主力商品として扱っていた「YANASE」が、ベンツを主軸にと一気に戦略転換し、ドイツ車と云えばフォルクスワーゲンだった日本のマーケットにおいて、BMVやアウディが(一時期はオペルまで)人気を博すことになった。

 こうした時代背景をうけて、従来とは次元の違うクォリティ志向のムーヴメントが、あらゆる業界で顕著なトレンドになっていく。飲食業界ではグルメ志向が巻き起こり、一大ブームとなった。こうした、いわゆるブランド志向の店やレストランの「成功の秘訣=K・F・S」(Key Factor for Success)は、効率アップとかコスト・ダウン(経費節減)とか、拡販(量産)とかではなく、手間や時間やコストをかけ、心を込めて、高い品質を維持できる適切な量の生産と販売をすることだった。マニュアル化による標準化ではなく、専門的、職人的な差別化が重視された。

 『福臨門』の職場には、少なくとも私がかかわっていた時期には、そのための環境が整っていた。厨房には、よりよい品質の商品を提供するのだという「信念」と「情熱」が溢れていたし、ホールには、お客様に対する「誠意」と「感謝」の気持ちが満ち満ちていた。そこにはルーティーンの仕事など存在しなかった。常に新たな気持ちで、或いは、より高い次元を目指して物事に取り組んでいこうという「熱意」が感じられた。お客様にも、その「意欲」は伝わっていたと思う。それ故にこそ、「財布が火事になる」ような料理やサーヴィスを、いつもご利用いただけたのだと信じている。どの一皿にも職人の愛情とプライドが、どの一言にもホールスタッフの想いと願いが感じられる、そんな職場だった。『福臨門』の料理は、どこのどの料理と比べて旨いとか不味いとか、というのではない。「今までのものは、いったい何だったのか?」と問い直すかのような、比較を絶するがごとき、圧倒的な水準だった。『福臨門』のサーヴィスは、どこのどのレストランのサーヴィスと比べて、いいとか悪いとかいうのではない、お客様の気持ちに寄り添った、温かい対応だった。こうしたなかにいると、どうしても「謙虚」さが失われ、「驕慢」が顔を出す。ここが微妙なところだ。「驕慢」を戒め、心静かに自らの仕事を振り返ってみることができるか。常に「謙虚」に反省できるかどうか。同時に「弊」にも陥りやすい。他人の意見や、ほかの店の良い点を認め、受け入れることができるか?往々にして、自分の正しさに拘りがちになる。そこを「素直」に省みることができるか。経験を積めば要領も覚える。そうするうちに「懈怠」に走る。「慣れ」からくる見落としや手抜きがないか。常に「勤勉」に、初心に忠実に、手間も時間も惜しまず、心を込めることができているか。そうしたことの積み重ねが、私達の誇りと自信とになって滲み出てくる。それが、私達の目指す世界なのだと言い聞かせる。言うは易く行うは難い。それでも、日々、黙々と努力する。それがプロフェッショナル集団というものだ。こうした信念が揺らいだとき、環境が損なわれたときには、必ず兆候が現れる。これに気付かなくなったら、もう、取り返しはつかない。

 残念ながら『福臨門』( お家騒動があってから、『福臨門』(香港)は売却され、『家全七福』と称するようになっていた )は、日本から撤退した。私が『福臨門』との関係を終えてから20年以上が経過した。いろいろなことは耳にしている。真偽のほどはわからない。親しく仕事をともにしたメンバーも、少なからず、老いた。よき思い出はそのままにしておきたい。私の知っている『福臨門』は、先に記したとおりの仰ぎ見るようなレストランである。《茗圃》にとって『福臨門』は永遠の目標であり、心の拠り所なのである。私達の故郷とも、「原点」ともいうべき『福臨門』。改めて、有り難い「縁」だったとつくづく思う。

 

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