RAPPORTのこと

ビジネス

 2016年に名古屋駅のランドマークともいうべき「大名古屋ビルヂング」がリニューアル・オープンし、3階のレストラン・エリアに”RAPPORT”が開店した。2027年に開業予定のリニア中央新幹線の構想によれば、名古屋駅から栄駅までの地下街、地下鉄桜通り線のさらに下(深く)に、リニア新幹線の「名古屋駅」が新設される。それに先駆けて名古屋駅周辺の開発が急ピッチで進められ、最新鋭の技術とノウハウを投入したビルが立ち並んだ。そして、そうしたビルのなかの飲食エリアには名古屋を代表する店が入居し、従来にも増して重要な商圏が再創造されることとなった。「大名古屋ビルヂング」の地下1階から地上2階には名古屋には初めてのお目見えとなる「イセタンハウス」が出店し、三越伊勢丹ホールディングス初の中型店ということで、大いに注目が集まっていた。

 2013年の夏、私は《茗圃》を訪れた突然の訪問者に、戸惑っていた。「大名古屋ビルヂング」に《茗圃》の2号店を出店しないかという、あまりにもチャレンジングな提案をぶつけられたのである。東京にも丸ビル、新丸ビルという三菱地所の看板ビルがあるが、「大名古屋ビルヂング」といえば、その名古屋版ともいえる、あまりにも有名な物件である。事務所を間借りするにも厳しい審査があり、簡単に入居は認められないと聞いている。そんな超有名ブランドが、まだ4年目の駆け出しのニュー・フェイスに声をかけてくるなんて、名誉というのを通り越して、圧迫感さえ感じたものだった。入居の条件も坪4万円ということで、躊躇なく断った。

 しばらくして、その訪問者は、ふたたび訪ねて来られた。「もう一度、よくお考えになって下さい」と、今度は、坪3万円の条件で・・・。これまた、ほとんど迷わず断った。条件もさることながら、それ以上に《茗圃》はこのような商業集積エリアに店を構えるような形態のレストランではないと考えていた私には、どうしても違和感が拭いきれなかったからだ。どこかほかの店と比較して、旨いとか不味いとか、高いとか安いとか、サーヴィスがいいとか悪いとか、そうした競争の中で勝利するというスタイルではなく、独自の魅力溢れる店創りを通して、私達のお客様に対して、お互いに納得のいく料理やサーヴィスを提供していくというのが《茗圃》のやり方だった。「先に物件在りき」というのも気乗りしない理由のひとつだった。私達はデヴェロッパーではない。広東料理を専門とする職人集団である。マーケティングはあくまでマーケット・オリエンテッドでなければならないというのが私の考え方だ。サプライ・サイド・ロジックで構築した仕組みや商品が創り出した流行にお客様が追随していくというやり方は、一昔前の高度経済成長期ならいざしらず、成熟した日本のマーケットには適合いないのではないか? そもそも、新しいとか古いとかではなく、徹底的にお客様の求めるものを突き詰めて、そのニーズやウォンツにサプライヤー側が寄り添っていくとうのが私のスタイル。「先に構想在りき」が私のやり方だった。

 年が改まって、「もうこの件は終わった」と思っていたところへ、またもや御足労をいただき、今度は(ここには書けないけれども)一層の好条件と、更に設備投資の負担までもするということで、「名古屋なら、《茗圃》さんしか考えられないんです! 東京や、大阪のレストランじゃダメなんです!」と強烈な口説き文句で迫られ「もはや逃げ切れないな」と堪忍した私は、「大名古屋ビルヂング」の”shops&restaurants”エリアに出店することを前提に、《茗圃》とは異なる構想の、まったく新たなレストランの出店計画を練り始めた。もう一つの理由として、2012年に始めた「大牌當」を閉店するとなると、従業員対策としても、何らかの新たな展開が必要、ということもあった。

 ここで、何故《茗圃》ではなく、”RAPPORT”だったのか、という点について、今一度記しておきたい。

 まず《茗圃》は、ランチ・タイムには本格的な中国茶と點心を、ティー・タイムには中国式のアフタヌーン・ティーを提供する「飲茶の殿堂」である。《茗圃》では、専属の茶藝師が厳選した中国茶と、點心師が毎日心を込めて手作りした點心を取り揃えている。師の「葉 榮枝」先生からご命名いただいた《茗圃》という店名は「茶園(ティー・ガーデン)」を意味しており、「飲茶」本来の意味である「茶を飲む」ことを楽しめる場所でなければならない。もちろん、《茗圃》は、伝説の名料理人「呉 錦洪」が初代料理長を務めた広東料理専門店でもあるが、《茗圃》の名を冠するのであれば、最低でも茶藝師を配置し、中国茶を求めて来店されるお客様にご満足いただけるだけの品揃えをしなければならない。いや、それではまだ不十分だ。《茗圃》を開店するに際して重要視したのは「飲茶」するに相応しい立地だった。緑の見える路面店で、車の往来の少ない(特に大型車が通らない)静かな場所が望ましいと考えた。久屋大通沿いのロケーションを勧める業者もあったが、騒音とともに駆け抜ける車やオートバイを眺めながら、優雅に茶を楽しむことは出来ないと考えた。しかるに、大名古屋ビルヂングの3階のレストラン・エリアは、車の往来こそないが、静かにお茶を楽しむのに適した場所とは思えなかった。大きな窓はあるが、見えるのは緑ではなく、駅前の高層ビルだった。反対側の入り口は、店の雰囲気や席の空き状況を覗き見るお客様もいて、落ち着いて食事やお茶を楽しむ気分にはなれなかった。だが、それ以上に難しいのは、先生のお眼鏡にかなう茶藝師を見つけ、配置することだ。また、茶藝師を置くとなれば、相応の中国茶の販売実績もあげなければ引き合わない。仮に優秀な茶藝師が雇えたとしても、どう観ても《茗圃》向きの場所とは言えないその立地で中国茶の販売促進をかけるというのでは、当人のモラルが下がってしまうリスクもあった。

 そもそも、《茗圃》は「多店舗展開」には向かないタイプのレストラン、標準化や量的拡大によるコスト・ダウンといった手法が馴染まない店なのだ。チェーン展開を前提とするレストランでは、セントラル・キッチンで半製品化された商材を、レトルト・パックされた調味料と混ぜて、一定時間加温するという調理の合理化、単純化を実現し、対象顧客の求める品質基準をクリアするとともに、標準化された作業内容で真面目に勤める人間であれば達成可能なレヴェルに難易度をコントロールし、比較的短い時間、少ない労力で、一定のクオリティを維持できるという特性を活かして、一気に量的拡大を図り、コスト・ダウンを実現する。そうした競争力、展開力の差で雌雄を決しようという方程式が一般的だ。ここでの「K・F・S」Key Factor for Successは、出来る限りバラつきが出ないように、標準化、単純化、省力化すること、そして展開のスピードといったことになる。一方、《茗圃》は、およそ標準化、単純化、省力化とは正反対のファクターが重要で、手間も、時間も、労力も惜しまず、技術的な錬度を高め、高い難易度の技法をも習得を目指す、というところがポイントとなる。システムの秀逸さよりも人的な鍛錬度合が問題となるために、多店舗化は容易ではない。料理長が変われば、料理の内容も趣向も変わるといった傾向が顕著になる。東京の有名なレストランでも、中華に限らず、フレンチでも、イタリアンでも、シェフが変わればメニューも変わるのは当たり前、その都度再評価が必要になるというのが実態だ。かの『福臨門』でさえ、銀座の『福臨門』と大阪や名古屋の『福臨門』では、「どうしてこんなに違うのか?」と聞かれて返答に困ったこともしばしばあった。むしろ、料理長の性格や長所が発揮されるコンセプトやメニューにすることが肝要だと思う。

 「大名古屋ビルヂング」のマーケティング担当の方には、《茗圃》の2号店の出店はできないが、《茗圃》がプロデュースする必然性のあるカタチで、《茗圃》の2号店がオープンする以上にエキサイティングな、あっと驚くような、魅力いっぱいの店を企画する!ということでご了解をいただいた。

 ”RAPPORT”のチーフには、若林 涼介を任命した。若林は『ラ・シュヴァル』というフランス料理店を営む父親のもとで育ち、社会人になってからは、当初は篠崎の『長五楼』に勤務したが、横浜の『金臨門』を訪れたときに「純広東料理」の素晴らしさに感激して、すぐさま『金臨門』に転職を決めた。その後『福臨門』に移籍し、さらに職場の先輩に誘われて『火龍園』へ、その後《茗圃》にも在籍したが、ふたたび先輩に請われて『JOE’S SHANGHAI NEWYORK 大阪店』に移り、2016年から”RAPPORT”の料理長に就任した。若林の良さは、《茗圃》の会田と違い、実にさまざまなレストランでの経験を積んでいる点だ。父親譲りのフレンチ・テイストも強みのひとつだし、籍を置いたことのある店のスペシャリティも熟知している。そうした若林の強みを最大限生かし、また「大名古屋ビルヂング」というロケーションの特徴も考慮に入れると、どんなスタイルのレストランがイメージできるのだろうか? と思案した。

 しかしながら《茗圃》の姉妹店ということならば、広東料理の技法に拘った、或いはそれを育んだ「香港」に因んだレストランにしなければならない。《茗圃》と”RAPPORT”の共通点と相違点、それは、会田チーフと若林チーフの共通点と相違点を明らかにするものでもあるはずだ。師匠の「呉錦洪」と同じく、『福臨門』一筋にキャリアを築いてきた会田と、ジャンルを超えていくつものレストランを渡り歩いてきた若林は、あたかも『福臨門』のように広東料理の歴史と伝統を重んずる一面と、東南アジアと西洋の接点である国際都市「香港」の革新性と多様性という一面とを思い起こさせるではないか。それならば、伝統的な《茗圃》と革新的な”RAPPORT”を、純粋で真っすぐな会田と、多様性があり変化にとんだ若林に演じさせてみてはどうか、ということになった。広東料理の歴史を具現する《茗圃》の料理と、広東料理の将来を啓示するかのような革新的で独創的な”RAPPORT”の料理は、真逆なようで、広東料理の過去、現在、未来を一筋に描き出しており、「香港」という街の二律背反的な特徴をも表現しているではないか? 我々は、この両極端ともいえる二つのレストランによって、時空を超えて中華料理の流れを示し得るのではないか、と思えてきた。

 ”RAPPORT”は、名古屋という日本の中心に位置する都市の玄関口にあたる駅前のランドマーク「大名古屋ビルヂング」から、世界に向けて、広東料理の未来、その発展の可能性を発信する。そこには、中華料理、広東料理という枠を超越した、世界のあらゆる領域の文化を取り込み、消化し、日本人の得意とする「和」の精神に則って、それらを融合し、新たな価値を生み出していく。互いの文化や慣習、信仰をも理解し、信頼し、尊重しあっていくことに繋げられるなら、本当に意義深いことだと思った。

 ”RAPPORT”とは、フランス語で(中国語ではなくフランス語にしたのは、フランス料理レストランをなさっていた若林の父君に敬意を表する意味と、単に美味しい中華料理店がひとつできましたよという認識を超えて、この名古屋から世界に新たな潮流を発信するという国際性を表現したかったから)、「橋が架かっている状態」「愛情と信頼の心で繋がっている」ことを表す。お客様と私達が、そして名古屋と世界とが、まるで「橋が架かっている」かのように「愛と信頼で繋がって」いけるようにと心から祈念し、命名した。

 こうして、私達は、広東料理の正統を伝える《茗圃》と、広東料理の未来を切り開き、新たなトレンドを発信していく、革新的な”RAPPORT”という、まったく対照的な二つのレストランを展開することとなった。コース料理とともにアラカルト・メニューも充実を図る《茗圃》に対し、”RAPPORT”は、ランチ・タイムはセットメニューを中心に、単価も1,000円台におさえていき、夜は、あくまでコース料理を主体とするが、中華バル的なご利用にも対応できるように、単品に関しては、おつまみになるようなメニューをいくつか考案した。ドリンクも、ビールや紹興酒だけでなく、ワインやシェリーなどにも注力し、出来る限り多くの種類のものをお試しいただけるように、すべてグラスでご利用いただけるようにした。

 ひとくちに広東料理といっても、なかなかに裾野は広い。「食は広州に在り」といわれるように「広州」がその中心地であることは間違いないものの、海鮮料理のルーツ「潮州」、特級の資格を持つ料理人を数多く輩出した「順徳」や、宋代からの歴史を感じさせる「客家」料理もまた、広東料理を語る上で、絶対に欠かすことが出来ない。さらに、中国が共産化した後には、中国で唯一といってもよい例外的な国際都市「香港」において、広東料理が進化を遂げ、国際的にも通用する水準に達するとともに、ここに集まった世界各国の料理の技法やアイディアが混然一体となって、”Cuisine Cantonaise”というジャンルが出来上がった。海老マヨ、白菜のクリーム煮、マンゴプリン、エッグタルトなどは、西洋の素材や調味料、東南アジアの果実や香辛料が複合的に合わさって出来た、「香港」ならではのメニューといえよう。

 21世紀に入り鄧小平が推進してきた経済振興策が功を奏し、中国の主要都市においてその成果を享受することが出来るようになったものの、香港返還がなされる以前の中国においては「香港」は資本主義経済が機能する唯一の都市であり、腕に覚えのある料理人は自分の技術やノウハウを高く買ってくれるマーケットが存在する「香港」を目指して移動し、当初は広州、潮州、順徳といった広東省の特色ある料理が、時には競い合い時には融和して、世界各国から集まる食通達の要求に応えようと鎬を削ってきた。その後、時代を経るにしたがい、中国全土から、さらには東南アジアや西洋諸国からも、さまざまな調理技法や素材が取り入れられ、この地において、広東料理を世界のグルマン達を唸らせるまでの水準に昇華させてきた。それだけではない。ここには広東料理店ばかりではなく、四川料理店も上海料理店も、タイ料理店も、ベトナム料理店も、インド料理店も、イタリア料理店も存在し、それらが互いに影響を与えながら、混然一体となった独特のメニューを研究・開発し、独特の魅力を醸し出している。私達の新しい店”RAPPORT”は、そうした「香港」の国際性と多様性とを、その進化と発展の歴史に照らしてみても正しく反映した、新しい広東料理レストラン「ヌーベル・キュイジーヌ・カントネーズ」としてスタートすることとなったのであった。

 「ヌーベル・シノワ」というと、上海料理系レストランの新たなトレンドとして、売り物の「上海蟹」を看板料理にした人気店などが出現したが、中国でもっとも国際的で多様性に富んだ街「香港」(そもそも「ヌーベル・シノワ」の発祥は「香港」である)をテーマにした広東料理系の「ヌーベル」は、まだまだ少ない。汐留のコンラッド東京に入っている”CHINA BLUE”くらいではないだろうか?(名古屋の伏見に、2021年にオープンした”Le Chinois SANO NAGOYA”は、名古屋における本格的なヌーベル・シノワといえるが、2016年当時は、まだなかった)

 私達”RAPPOER”の目標は、単に目新しい創作料理を開発することではなく、広東料理の歴史と文化を体現しつつ、その発展形として未来に向けて発信することが出来る、正統的な「ヌーベル・シノワ」の在り方を世に示すこと。すなわち「温故知新」の精神に則った、ごまかしのない、裏付けのある料理を提供すること。その点では、《茗圃》と”RAPPORT”は、一見「正反対」のレストランのようでいて、あたかも兄弟のような共通点をもっている。

 従来になく独創的、かつ革新的な”RAPPORT”だが、広東料理の技法と香港の歴史・文化とに裏打ちされた正攻法の「ヌーベル・シノワ」。「大名古屋ビルヂング」の皆さんが、そしてこの新しいレストランのお客様がどのような評価をして下さるのか、ワクワクするような、ドキドキするような興奮に包まれながら、”RAPPORT”は船出することになった。

 当初はうまくいったかのように見えた。話題の「大名古屋ビルヂング」がオープンした!  たくさんのお客様がやって来た。ブランドビルの集客力は。とてつもないものだなと思った。最初の月から1000万円を超える売上を計上し、早くも《茗圃》の実績を超えた。しかし、どんなお客様が来られているのかといえば、”RAPPORT”のお客様というより「大名古屋ビルヂング」のお客様という感じで、早く店を決めないとどの店も満席になってしまうので、とりあえず手近の店に潜り込んだというような入り方だった。”RAPPORT”の料理の魅力が分かっていただけたかどうかは疑問で、値段を観てこれくらいでいいかといった注文の仕方の方が多かったように思う。「普通の中華はないのか?」なんて声も聞かれ、スタッフは説明に窮して「もっと分かり易い、中華らしいメニューがいい」と言い出した。口を揃えて「普通の中華料理」を売る方がもっと客も入れられるし売上も上げられると主張した。その都度、私は”RAPPORT”の売りは新しい広東料理の提案なんだと説明したが、なかなかイメージが湧かなかったのか、それとも「大名古屋ビルヂjング」のお客様に押されたのか、いずれにしても”RAPPORT”の特徴をアピールするには至らなかった。

 あまりにも忙しかった。スタッフは「ほかの店に客を獲られまい」と店先に立って、「大名古屋ビルヂjング」のお客様を呼び込むことに躍起になった。オープニングの頃にこの店を訪れたお客様の大半は、”RAPPORT”の料理やコンセプトに共感したお客様ではなく、「大名古屋ビルヂング」とはどんなところかを見に来た人々だった。ここでランチして、買い物して、新しい施設を楽しむことが目的の方々。それはほかの店も同じだったと思う。お客様は、名古屋名物の「ひつまぶし」や「台湾ラーメン」に殺到し、そこがいっぱいになると、それ以外の店を覗いて空席を見つけて食事を済ませるといった行動パターンだった。そうしたお客様向けには、確かに分かり易い中華の方がいいのかも知れなかった。しかし、それでは私達の目的、目標とは違っていた。

 開店ラッシュは、半年間で終わった。その後は一気に客数が減少した。しかも、昼も夜もピーク時間が極端に短かった。ブームが去ったあと「キッテ」と「ゲート・タワー・ビル」が竣工した。同じ商圏内で、客の奪い合いとなった。名古屋製酪の営業マンがいうには「大名古屋ビルヂング」だけの時と「キッテ」や「ゲート・タワー・ビル」が出来た後とを比較して、取引店舗数は3倍になったが売上高は変わらなかったということだった。レストラン・エリアが比較的小さい「キッテ」だけの時はまだしも、2フロアすべてがレストランで占められる「ゲート・タワー・ビル」がオープンした後は、地の利も含めて、「ゲート・タワー・ビル」の圧勝という結果になった。《茗圃》の常連さん達は、「大名古屋ビルヂング」は名古屋駅から道路一本を隔たっているので、どうしても不利だと言っていたが、私は逆に、地下鉄東山線からは一番近いと反論していた。果たして、常連さん達の懸念の通りになった。

 それでも、ここからが正念場なんだと考えた。私達が欲しいのは”RAPPORT”のお客様であって、「大名古屋ビルヂング」のお客様ではない。これまでは「大名古屋」に来られたお客様を”RAPPORT”に如何に誘導するかといった色彩が濃かったが、本来、”RAPPORT”のお客様に「大名古屋ビルヂング」に来ていただくということが必要なのであって、それならば、誰もが知っているブランド・ビルに店を構えていることは有利であっても決して不利ではないと言い聞かせてきた。開店からわずか半年間の間にも”RAPPORT”の料理やスタイルに魅力を感じていただけるお客様は確実にいらしゃって、時間はかかっても、私達の店の常連客を増やしていくことはできるはずだった。売上が下がったのは”RAPPORT”に魅力がないのではなく、「大名古屋ビルヂング」の集客能力が低下したことが原因だった。そもそも「大名古屋ビルヂング」に人が溢れているときには、先に人気店が満席になったとしても、ほかの店も次々に客席が埋まり、実力以上の数字が残せたものの、人が疎らになったならば、認知度が低いレストランや、評判の芳しくない店から順に、売上は減少傾向をたどるのは自明なことだった。私は”RAPPORT”のコンセプトや料理の品質には自信を持っていたが、もともと対象顧客とはいえないお客様が大半の状況で、ビル全体の顧客動員数が極端に下がったっ場合は、一旦は売上が落ち込むのはいたしかたないことだった。したがって、店長が「普通の中華」中心の品揃えにすることには同意せず、一部のメニューをエントリー用に分かり易いものにするに止めた。当初から、”RAPPORT”のコンセプトを明確に打ち出し訴求することで、他店との比較において旨い、まずい、高い、安いといった次元の競争ではなく、当店の存在意義と評価を問うことが出来る、と信じていた。もう『大牌當』の二の舞をするつもりはなかった。

 我々の努力が実って、一旦は落ち込んだ業績も徐々に持ち直し、”RAPPORT”のコンセプトを理解し、その料理やサーヴィスを評価して下さるお客様も増えてきた。開店から1年が経過し開かれた「大名古屋ビルヂング」の全テナントが集っての1周年の懇親会で、”RAPPORT”はベスト・レストラン賞を受賞した。お客様からも、同業者からも、三菱地所のマーケティング部門からも、こぞって高評価を得たことは、大きな自信となった。

 ”RAPPORT”は、広東料理の技法を正しく「守」りつつも、その殻を「破」り、さらに『福臨門』や《茗圃》のような伝統的なレストランの在り方から「離」れて、中華料理の未来を指し示す、独創的で革新的な「ヌーベル・キュイジーヌ・カントネーズ」である。「ヌーベル・シノワ」レストランの多くがその背景となる歴史や伝統といった「守」の部分が曖昧で、本当に大切なことが疎かにされがちなのに対して、若林の料理は広東料理の最高峰とされる『福臨門』やその系統の継承者である《茗圃》の技も智慧も心も体得した上で、そのルーツである「香港」の過去・現在・未来を視野に収めつつ、伝統的な料理の殻を破って、新たな可能性に向けてチャレンジしている。いわゆる「守」「破」「離」が出来ている点、「温故知新」が体現されている点が素晴らしい。「知識」と「智慧」とは違う。「腕」と「技」も違う。レシピ―本やマニュアルで知識や情報は得られても、それをどのように実践していくのかの現場を見ない限り、それを体得することはできない。しかも、それを1日やそこらで体に覚えさせることは不可能だ。毎日まいにち、そうした「守」るべき基本、本当に大切なこと、本質的なものを師匠の下で繰り返し繰り返し体に染みつかせていくことが大切だ。智慧や技は頭で覚えるのではない。体が覚えるのである。

 習字の覚えのある方ならお分かりになると思うが、上達するためには、お手本をもとに、何度も何度も「真似る」ことを繰り返す。真似ても真似ても、なかなかお手本通りに書くことは難しい。出来るようになるまで辛抱強くさらい、ようやく習得して、はじめてお手本なしでも自分の思ったように書けるようになる。孔子は「学ぶ」ことは「真似る」ことだといった。その過程なしに、「考え」たところで何も得られないといった。そのお手本が「優れて」いることも重要である。良い「お手本」でなかったならば、それを真似た字も優れた字とはならない。本当のこと、大切なものが伝わらないからである。残念ながら、情報化社会になって、そうした「守」の部分が疎かにされがちになってしまった。もとより、本当のこと、大切なものを学ぶためには、そのお手本を示せる人、「師」に出会わなくてはならない。優れた「師」に出会うこと(良い「お手本」)なしに、優れた「智慧」や「技」を身につけることなど出来るものではない。優れた「師」と出遭うことは容易ではない。「師」と呼べるような達人が何人もいるわけではないうえに、「師」が何人も弟子をとることも出来ないからである。

 「師」と出遭うためには「縁」がなくてはならない。その「縁」に気付き、その「縁」を掴まなくてはならない。そうした「縁」を掴んだ者は、幸せである。優れた「師」に出会うことなしに、独学で「智慧」や「技」を習得したとする者もいる。この世に奇跡がないわけではないが、そのようにして道を究めるものは、料理の世界に限らず、ほとんどいない。「守」るべきものも知らず「破」ることを「破れかぶれ」というが、時代とともに、そうした「縁」を大切にする文化が廃れ、本物と紛い物が入り混じった世の中になってきてしまってはいないか? 真っ当な「芸術」とはほど遠い「我流」に付き合わされるというのでは、消費者も堪ったものではない。

 ”RAPPORT”は、広東料理の基本を大切にしつつも、日本の、そして出来れば名古屋の素材や歴史、風土に因んだ要素を取り入れて、独創的で革新的なメニューを開発、提案していくこととなったが、ただでさえ実績に乏しい店には慎重な名古屋のお客様に、さらに新ジャンルの店ということもあり、認知度を上げていくには時間がかかった。オープン当初のお客様は、大半が「大名古屋ビルヂング」のお客様であって、”RAPPORT”のお客様ではなかった。オープン景気でできていた売上のほとんどはご祝儀的なものであって、ブームが去ったあと、もう一度”RAPPORT”の本当のお客様を積み上げていく努力が必要だった。しかし、それにしては「大名古屋ビルヂング」の店は重たすぎた。採算を合わせるために、どんな方策が望ましいか、ということが問題になった。「ベスト・レストラン賞」を授与され、常連客もできつつあった”RAPPORT”だが、採算分岐点までは、まだまだ大きな乖離があった。

 しばらくして、店長が替り、新たな方針が打ち出された。「ヌーベル・シノワ」という側面を少々弱めて、もっと分かり易い「北京ダック」と「點心」を大々的に訴求することによって”RAPPORT”のターゲット層を拡大し、より広い客層にアピールすれば、売上を800万までもっていけるはずだということになった。いずれも既に”RAPPORT”のメニューに載っているもので、新たなメニュー開発を要するわけではなく、すぐさま対策出来ることだった。店の表のガラス扉に「北京ダック」と「點心」を大写しにした写真を貼り、看板メニューとして強調する方策を講じた。

 一定の効果は出た。800万円の目標も到達できた。しかし、同時に疑問も湧いてくる。これでは、ほかの店とどう違うのか? 結局、どのレストランの「北京ダック」が美味しいのか、《茗圃》も含め、他の「飲茶」専門店と比べて「點心」がどちらが旨いのか、といった競争の土俵に乗ることになった。『大牌當』を閉めて”RAPPORT”を開店させたのは、やりたいことをやって、それが認められ、評価されることを望んだからではなかったのか? そして、「ベスト・レストラン賞」受賞というカタチで、”RAPPORT”は認められ、常連客も定着しつつあった。いま、ここで方向転換したことが、そうした評価や認知と照らし合わせて、どういう結果につながるのか、それを再考する必要があった。若林の料理をどう生かしていくのか? ”RAPPORT”のコンセプトをどう位置付けていくのか?

 結局、”RAPPORT”は、そのまま迷走することになった。お客様はもちろん、私達自身も、”RAPPORT”がどんな店か、さっぱり分からなくなっていた。それでも月々の支払いはし続けていかなければならない。給与は払い続けていかなければならない。損失が大きくならないうちに閉店した方がいいという意見が出始めていた。こうなると、立て直すのは容易ではない。私の弱点が露見する形となった。私は、率先垂範型でも、指示命令型でもなく、支援型のリーダーシップを採るタイプで、いい時は上手く機能するのだが、悪い時には迷走する原因ともなり易いという欠点を持つ。支援型は権限移譲を推進するという特長を持つ。”RAPPORT”の存在理由に直結するコンセプトの転換に関しては、私は権限移譲を保留するべきだった。今となってはもう取り返しがつかないことだが、この時、私が断固として”RAPPORT”のコンセプトを貫いておけばよかった、と後悔している。

 しかし、その後の推移をみれば、撤退は最良の選択肢だったかもしれない。「大名古屋ビルヂング」の全体構想自体が疑問視されていた。フライパンの魔術師の異名をとる郡山氏の”Corrie’s”も、名古屋の名シェフ、松村君の”Maison Le Pin Mura”も撤退した。そして、ついに”ISETAN HOUSE”も・・・。何が問題だったのか未だに明確な理由はつかめていないようだが、「大名古屋ビルヂング」の”shops&restaurants”は名古屋駅周辺の大型商業施設の開店ラッシュによって巻き起こった競合に負けたカタチとなった。

 私は、”RAPPORT”が撤退にいたった本当の原因は、「大名古屋ビルヂング」”shops&restaurants”の構想のせいでも、チーフの若林の技量せいでも、コンセプト転換のせいでもない、と思っている。いちばんの理由は、私が、「ヌーベル・シノワ』という新しいジャンルへの挑戦を、そのリスクを勘案しながら小さなチャレンジに留めておかなかったこと、すなわち私の「驕慢」にあったと考えている。

 ”RAPPORT”の存在価値は、お客様にもテナント・オーナーにも、しっかりと伝わっていた。開店して最初の年に、早くも「ベスト・レストラン賞」を受賞できたことが、それを証明している。オープン景気が去ったあと、また一から努力を重ねて”RAPPORT”のファンを獲得しつつあったことも、確かな手ごたえとして感じとることが出来た。しかし、ハードル(損益分岐点)が高すぎた。そのハードルを越えようと、無理やり顧客獲得に向けた方策を採ろうとしてしまった。本当に大切なものが何かを、見失ってしまった。もうひとつ、私が得た教訓は、こうした名古屋駅周辺のロケーション、さらには大型商業施設内のレストラン・エリアには、名古屋名物の「ひつまぶし」とか、「味噌煮込みうどん」とか、「名古屋コーチン」とかのように、一目見てそれと分かるような店を出すか、或いは、名声の確立したブランド店を出すことが大切だ、ということ。私は、大型商業施設での実績は、皆無に等しかった。そのような私が、「大名古屋ビルヂング」のような名門ブランド・ビルで店を開くには、あまりにも未熟だった。にもかかわらず、こうした大きな投資を決断したこと、これが真の原因だったと思うのだ。

 その後、”RAPPORT”のあとには『陳麻婆』が入り、村松君は”Maison Le Pin Mura”を閉めて、『カツレツMATSUMURA』を開店させた。名古屋駅周辺の対象顧客に、馴染のある、分かり易いメニューで、改めてアピールし直すことにしたのだろう。なお”Corrie’s”のあとには、カウンター寿司が入った。ISETAN HOUSEのあとには、有名なブランド店が出店した。実績はどうなのだろうか?

 若林は、大阪のリッツ・カールトンに移籍した。有名なホテルだからと言って、やりがいのある仕事ができるとは限らないが、奥さんの出産もあって、当面は実家に近いところで仕事に励む方がいい、ということになった。自宅は名古屋から引き払うつもりはない、という。夢を捨てたわけではない。時を待って、必ずリベンジする。そう確認しあって、しばし別れることにした。まだ終わったわけではない。やり直す時間は十分ある。悔しくはなかった。

 2020年から、新型コロナ・ウィルスという奇妙な病気が流行し、パンデミックとなった。飲食店を営む者は、みな衝撃を受けた。なによりも感染拡大を防ぐことが優先されることとなった。店を閉めるか時間を短縮して営業するか。そして、遂に酒類の販売が禁じられる事態にもなった。飲食店業界からの突き上げがあって緩和されることとなったが、何と午後7時までの制限付きでの販売認可だった。「やれるものならやってみろ!」といわんばかりの、不可思議な緩和策だった。その代わりに、時短協力金という補助金が支給されることになった。私達は従うことにした。何としても、感染拡大だけは抑制しなければならないという国の方針は理解できたからだ。結果論だが”RAPPORT”の閉店は正解だった。こんな状況で2店舗も営業することは、到底出来なかったと思う。そう考えれば、ラッキーだったともいえる。

 2022年になって、若林が名古屋に帰ってきた。相談したいことがあると言ってきた。望むところだ。若林は、開口一番、「店を出すことしか、頭にはない。」といった。強い決意が感じられた。しかし、今は駄目だ。コロナだけではない。戦争まで始まった。物価高、円安、景気後退。従来のパラダイムがシフトしそうな様相さえ呈している。台湾有事という事態が現実味を帯びてきた。そんなことになったら、中華食材はどうなるのだろうか? 北海道で、嵐の中を無理やり船出して大惨事になった、というニュースが流れたが、このタイミングでの出店は、危険なギャンブルに思えた。しばらく時を待とう。そのうちに、状況判断すべき時期が到来する。その時にスタートできる準備をしておこう。

 若林は、いま《茗圃》で充電中である。古巣に戻ったということではない。《茗圃》は、彼にとって、あくまで寄港地でしかない。彼の最終目的地は、別のところにある。これから、どのようにそこを目指していくのか、一緒に思案しているところだ。我々も、今後、若林がどのように羽搏いていくのかをワクワクしながら、ハラハラドキドキしながら見守っていくことになる。”RAPPORT”のファンだった皆様には、もう少しお待ちいただきたい。若林は、必ずカムバックしますから・・・。

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